「評価」は何のため?「評価」を生かし、「評価」を裏切り輝いて♪どんなこどもも楽しみがいっぱいだ。
駅でふと、昔の教え子に似た高校生を見かけた。
教え子はもう20歳を過ぎているから本人ではないのだけど。
初任校にいるときに、初めて送り出した卒業生だ。
そういえば、あの子は元気かな?あの子たちは元気かな?
次々と色々な顔が思い浮かぶ。
何をしてるだろう。何を学んでるかな?何に夢中になっているかな?
どんな道に就いたかな?
想像しただけで、ワクワクしてくる。
いつも私は、我が子やクラスのこどもたちにワクワクしている。
この子たちがどんな道を歩むのか、想像するだけで、いや、顔を見るだけで
いつも楽しみになってくる。
知っている子に限らない。
可能性をたくさん秘めたこどもたちの、その存在自体が楽しみなのだ。
勉強ができようができまいが、落ち着きがあろうがなかろうが、成績に関係なく
どんな子も面白い。楽しみが詰まってる。
皆が原石。
どんな原石を持っていて、それを見つけ出せるか。少しでも磨けるか。
親や教師の仕事は、宝箱の中の宝探しが仕事かもしれない。
原石磨きの助手かもしれない。
宝探しも原石磨きもワクワクする。
だから私が、面談などのとき、どんな子の保護者にも最後はやっぱり
「面白いですよ!」「将来楽しみですよ!とにかく楽しみですね。」「どんな子に育って行くのかを楽しみに、今を楽しみましょうよ。」
というのはそういう理由だ。
決して、学校の成績なんかじゃ測れない。(学校の成績をつけている人が言うのだから間違いない!)
むしろ学校の成績なんてあまり信用しないで欲しい。
ほんの一部の参考程度くらいでいい。
たくにいを見たってそうだ。
学校では、発揮できていないであろう魅力的なものをたくさん持っている。(親ばか)
先生も知らないだろうものがある。
保護者の方も思うのではないだろうか。
通知表ではこうだけど、我が子にはもっとこんな力が・・・なんて思うこと。
教師の仕事に、「評価」がなければ、どれだけもっと楽しいだろうと思う。
「評価」するほど嫌な仕事はない。
「評価規準」があり、一応それに基づいて自分なりに授業を組み立て、支援し、「評価」らしきものをするけれど、見ているものはやっぱりその子のほんの一部でしかない。
学期の終わりに評価をまとめながら、「私がもっとうまく支援してあげられたら、もっといい成果が出せるだろうな」「私の教え方がもっとうまければ、もう少しいいものを作れるだろうな」「書くんじゃなくて、口頭だったら(他の方法だったら。もっと時間があれば)きっと答えられるかもしれないのにな。」「私じゃなくて、他の先生ならもっと・・・」なんて思いがたくさん出てくる。(それじゃいけなくて、その支援をいかにできるかが私の仕事なんだけど、まだまだ修行中。)
そして、「評価」されることで意欲が高まればいいが、「評価」されることで自分の価値が下がり、自分の力をそこまでだと決められてしまっては恐ろしい。
成績にするとパッとしなくても(この感じ方も人それぞれ)、人として楽しみだなと思う子は山ほどいる!
だから私は、通知表をつけるとき、成績の数値ではなく、その子の姿がキラキラと浮かび上がり、少しでもその魅力を、拙い言葉だけど文章で表現し、伝えようとする。
こどもたちや保護者にはどう映っているか分からないが、私としては、通知表にその子の魅力が溢れ、眩しく見える。
(校長先生や他の先生には、「さくらっこが書く通知表は温かい。想いが溢れていて、その子が生き生きと描かれている。」と言ってもらえる。ずっと大切にしたいところだな。)
時々、保護者の中に、こどもを、こどもの道をコントロールしようとする人がいる。
自分が失敗したようにはさせたくない、あるいは、自分がしてきたように、自分が思い描いているようにさせたい。
そのため、我が子への評価を気にし過ぎる。周りと比べ過ぎるということがある。
悪いわけではない。
我が子に願いや想いがあるのは当然だ。
自分のような経験をさせたくないという思いもあるだろう。
いい方法を知っているから、少しでもそのようにさせてあげたいという思いも出てきて当然だ。(それで成功している人もたくさんいるけど。)
でも、思うのは、いつだって我が子は親の予想や想いを裏切っていいじゃないか!ということだ。
思い通りにいくのもいい。
だけど私は我が子に、どんどん私の期待や予想を裏切って!想像を超えて!!と思う。
我が子が自分の思い描く通りにいくというのは、所詮自分が知っている中でのちっぽけなものにしかならない気がしてならない。
つまらない。笑
(ま、実際、簡単に予想なんて裏切るだろうし、思い通りになんて全くいかないだろう。)
我が子が、自分で自分の人生を切り開いていってくれる姿ほど、頼もしく、嬉しいことはない。
いいなと思うことは伝える。
でも選ぶのは、こども。
自分の未来を築くのもこども自身。
私だって、教師にはなったけど、終わりではない。
まだまだ、どんな自分になりたいか、この先どこに向かいたいか、常に更新中。
自分の未来にむけて、自分の人生を楽しんでいる真っ最中だ。
たくさん自分で選んできたから、自分の人生を創るのが楽しくて仕方がないし、次はどうする?どうなる?とワクワクしっぱなしだ。
(だから、何かと自分中心でごめんなさい。)
こどもたち、どんな人生描きたい?どんな人になりたいかな?
自分で選ぶ、自分で切り開いていくことは、大変だけど、楽しいよ。
自分の人生だから、そうして当たり前なんだけどね。
“自分で”だけど、“ひとり”ではないし。
私がつける「評価」が少しでも、意欲に繋がりますように。
「評価」をすることで、私も自分のやり方を振り返り、もっとたくさん宝石が見つけられるように、もっと原石を磨けるように頑張ります。
なんてことを、
もう少ししたら通知表をつける仕事が始まるからか、、、ふと考える。
でも実際、息子が高学年になったり、受験を控えたりすると、やっぱり「評価」はもっとシビアで、振り回されるなのかなぁ。
そんなとき、私はどんな行動をとったりするのか、見ものだな。
最近、ひらがなを何も見ないで書き始めたいちぼう。
保育園のお迎えに行くと「来て来て!見て見て!!」と出してきた。
たいよう。(よ、が惜しいけどね。)
こう見えてるのか。面白いな。
選ぶ言葉が、またいいな。
うんうん、いちぼうのひらがなの世界、次のステージへのはじまり、はじまり。
我が子やクラスの子、教え子たち。
たくさんの原石に出会え、これからどんな輝きを放つのかが楽しみで、楽しめる私は
一生幸せ者だ!
毎日が幸せだ!